バルカン半島/ビザンツ帝国の歴史(慶應 法学部 2002 抜粋)

学校、予備校では殆ど扱わない単元であるが、早慶では平然と問われる単元である。

設問

しかし、ユスティニアヌス帝の死後、6世紀末から帝国はロンバルド王国はアヴァ―ル人などの侵入に苦しみ、7世紀末になるとササン朝ペルシャやイスラム勢力、さらにブルガール人などの攻勢を受け、帝国の領土はギリシャやバルカン半島の一部、そしてアナトリアを残すのみとなった。外敵の侵入に対抗するため、(B)は帝国内をいくつかの軍管区に分け、その軍管区に駐屯する軍団に行政上の権限を与えるとともに、1その指揮下の兵士には給与の代わりに世襲できる土地を与えて定着させることで、軍事・経済の基礎を固めようとした

9世紀中頃から11世紀初めにかけて、ビザンツ帝国は(C)の皇帝のもとで一時繁栄を取り戻し、イスラム教徒からシリア北部や東地中海の政権を奪い、また1018年に(D)を併合した

解答 Bヘラクレイオス1世C バシレイオス1世  D第一次ブルガリア王国 1プロノイア制

バルカン半島といえば、近代ヨーロッパでヨーロッパの火薬庫と呼ばれる。そのバルカン半島の情勢が古代~近代までどうだったのか確認しておこう。ビザンツ帝国を理解する上でもバルカン半島への理解は必要不可欠であるので

時代別 バルカンの支配

  • 古代 アレキサンダー・ローマ・ビザンツ帝国の支配
  • 中世 ブルガリア、セルビアなど
  • 近世 オスマン帝国の支配
  • 近代 ハプスブルク家、ロシアの介入
  • ナポレオン戦争 主権国家の主張 注1)

記事を作成する際に参考にした書籍は、「真・戦争論 世界大戦と危険な半島」です。

注1)倉山満「真・戦争論 世界大戦と危険な半島」,KKベストセラーズ,2015年4月,33ページ

設問

ブルガリア帝国の歴史 

ブルガール人によって建国される。南スラブ人が移動し、同化していく。

681年~972年 第一次ブルガリア帝国 皇帝シメオン1世がビザンツ帝国から貢納させる。ビザンツ帝国と和議を結び東方正教会を国教とする。

978年~1018年 ブルガリアを再興するも滅ぼされる。※1018年ビザンツ帝国マケドニア朝バシレイオス二世によって滅ぼされる

1187~ 1393年 第二次ブルガリア帝国 

※1241年 セルジュークトルコ、モンゴル(キプチャクハン)に服属

※1391年 オスマン帝国に服属

ビザンツ帝国 皇帝

ユスティニアヌス帝(527~565年) ヴァンダル王国・東ゴート王国の征服/ ローマ法大全を編纂/ハギア=ソフィア聖堂(セント ソフィア聖堂)の建設

ヘラクレイオス1世(610~641年) ヘラクレイオス朝 (610年~717年) テマ制度

テマ制度とは、イスラム教徒にシリア、エジプトなどが支配されたため、現地の行政官に軍事権をゆだねたことである。テマ制度で軍事貴族が反乱を起こしたため、テマ制度を緩めるとともに、ビザンツ帝国の崩壊が始まる。セルジューク朝がアナトリア半島に侵攻してきたのである。

レオン3世(717~747年) イサウロス朝(717) 聖像禁止令(726年)の発布

バシレイオス1世(867~886年) マケドニア朝(867~1057年)

コンスタンティノス8世(1025-1028) マンジケルトの戦い ビザンツ帝国の金の流出

アレクシオス1世

ミハイル4世(1034-41)プロノイア制に移行

プロノイア制とは、セルジューク朝がアナトリア半島に進出してきた為、ビザンツ皇帝がプロノイア(国有地)の管理を地方の貴族に管理することを認め、ビザンツ皇帝に税金を納めさせること。

ミハイル8世(1261~1282) ラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還してパライオロゴス朝(1261~1453年)

ブルガール人の移動

中央アジアに住んでいたトルコ系遊牧民のブルガール人が、黒海北沿岸に移動し、7世紀に大ブルガリアを建国する。ハザール・カガン国に征服され、滅亡する。

第一次ブルガリア帝国の勢力図 ①第一次ブルガリア帝国 ②ビザンツ帝国

By 霊夢

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